器と罰(バチ)
~From 開運コラム~
最近、「バチがあたる」 という台詞を聞かなくなりました。でも私は、普段良く使ってしまう言葉です。
悪いことをしたらバチがあたるとか、ダラダラ過ごしてたらバチがあたるとか…。誰かが見ていようと見ていまいと、自分自身を戒め、正しく精一杯生きるために、この「バチ」の存在も私の糧になっているのかも知れません。
そもそも、「バチ」 はあるのか?となりますが、結論から言って 「在る」 と言い切れます。これは信心深い者も、無神論者や唯物主義者も関係なく、善からは善を生み、悪からは悪を生むことからは逃れられません。
無神論者や唯物主義者は、虚弱な浮遊霊(その他の悪霊は除く)が憑きにくいという特徴はありますが、神仏や精神世界を信じようと信じまいと、全ての生物は、見えない強大な力が注がれている同じ器(世)の中で生かされています。分かり易く言えば、全てのものに引力が及び、宙に浮くことなく生活していますし、1日24時間の速度も同じですね。
この強大な力を神の威力と取るか、宇宙のエネルギーと取るかは別として、この力を無視(気付かない者を含む)して生きるものに比べて、神仏や星のパワーに気付き、巧く活用したものは人並み以上の人生を送ることが可能になります。
「信心は徳の余り」と言いますように、信心深く生きられるのは、生活(精神)に余裕のある者の特権ですから、それだけで徳があることを示しています。かと言って、「信心過ぎて極楽を通り越す」という言葉もあります通り、それが過剰になっても、邪に陥り、霊障をわずらい、人生を落とすことになります。
これを巧くバランスをとるのが、「バチ」 です。現実社会や自我や信仰…等という何かだけに極端に偏ることを防ぎ、自分の良心的な決断によって人生を切り開く指針になります。
話は少しそれますが、 「努力しているのに、結果が出ない」 ということもあります。確かに、先天・後天的な業や徳分によって効果の表れには違いが生じますが、「元々持っている力」 も要になります。2の力しか持っていない人が1の努力をすれば、それなりの効果は出るでしょう。しかし、10の力を持っている人が1の努力をしても中々…となります。このように、努力をしているつもりなのか? 本当に出来るだけの力を出し切っているのか?ということも重要です。
人それぞれ器の大きさは違います。それによって努力の度合いも、受けられる幸運の度合いも変わってきます。持って生まれた力が大きい人は、人よりも大きな目的や希望を抱きますし、その分、人より多くの苦労と努力を重ねなければならないということになります。しかし、諦めずにそれらを積み重ねた後には、通常では難しいとされる心願を成就させたり、プラスアルファの幸運を手にすることが必ず出来るのです。
また、霊障を気にする方が大変多いですね。やはり邪霊に取り憑かれている人は、穢れた精神で誤った言動を繰り返し、悪念を受けたり飛ばしたりしながら、どんどん不幸の渦へと呑み込まれていきます。その上、的外れな努力に励みますので、幸運から遠ざかることもあります。悪からは悪しか生じません。霊障によって不幸の元凶になっている人は、ご本人も幸せになれないばかりか、その人が関わる人までも不幸に陥れてしまいます。
よって、霊障に悩んでいる人だけでなく、霊障の煽りを受けていない人も注意が必要です。行動や思考がおかしい人、妙に不幸が続いている人には、安易に近付かないことです。可哀想…、助けてあげたい…、私がついててあげなきゃ!なんて、軽はずみな同情心で迂闊に近付くと、共倒れになって人生を落とします。また、霊障がある人は、他人に過剰な思い入れをします。踏み込まないだけでなく、つけ込まれないように注意しましょう。霊障がある人に執着されますと、本当に執拗で煩わしいですからね。呪い返しが出来るなら結構ですが、そうではない場合は、実質的にも霊的にも、中々逃れられませんよ。
話を元に戻しますが、バチも、先程の努力や器と同じ原理で働いています。小さな因(原因)には、小さな果(結果)が齎されるというシステムです。昨日の悪事が今日バレて怒られた…という小さなものから、物凄く大きなものまでありますね。
悪事と言っても、犯罪行為は論外ですので、ここでは日常に溢れている恨みや嫉妬、意地悪や背信行為などを指していますが、小さな悪因から出た小さな悪果(バチ)は、大抵の場合、時間(日数)をかけることなく、割と早くに表れます。これは守護霊がお守りお導き下さっている証拠であり、バチと言うよりも、「もうダメですよ!わかりましたね?」 という警告や戒めにあたります。
しかし世の中には、他人を痛めつけたり、好き勝手をしながらノウノウと生きている人もいますよね。「あんな酷いことをしてるのに、バチもあたらず、何不自由なく幸せに暮らしているのは納得できない!」 というのも、よくあるお話です。
確かに始めの内は、善カルマや徳分、守護霊の加護によって悪因をチャラにしてもらっていたのでしょうが、許容範囲の器を越えた辺りからは、守護霊の力は及ばなくなっています。換わりに悪霊に憑依・支配され、どんどん増長し、本人は調子に乗り続けます。そして、悪霊からみて1番効果的なところで、ドーンと人生を落とされるのです。またこれら悪霊の仕業だけでなく、積み重ねられた悪事は神仏の怒りにも触れますので、悪霊の禍を越えるような 「神罰」 が下ることも往々にしてあります。悲しい人生どころか、人生を一遍にひっくり返されて何もかも失ったり、精神病を患って苦しんだり…、どん底を喰らうことになります。よって、悪いことをしているのに、中々バチがあたらない方が、恐ろしい現象であると感じます。
自分の良心に従って、正しく生きることを心掛けることは言うまでもありませんが、人間には欲望や感情がありますし、誰かと関わって生きなければなりませんので、完璧に生きることは難しいと言えます。ですから、ちょこちょこと失敗するのも、時々自己嫌悪に陥るのも、これらは守護霊の力が及んでいる証拠ですので、絶望視する必要はありません。
だからと言って、同じ失敗を繰り返していたのでは、同じところで足踏みをするだけになりますし、小さな警告で分からないのならば…と、大きな警告を受けることもあります。失敗や苦悩は学びに変えて前進し、次のステップで活かせば良いのです。それを守護霊は望んでいるのですからね。どんどん努力して、どんどんパワーアップしている人の守護霊は、光り輝いており、満面の笑みを讃えています。守護霊が見えない人も、これらはご自身の顔色や人相、肌の質感に表れますので、守護霊の状態や意識を感じ取れると思います。
今年も後僅かですが、神仏と守護霊の発展を慶び、今年1年と生きてきたこれまでを感謝し、私達もそうあるように明るく元気に頑張っていきましょうね。来年、もっともっとパワーアップするために、ラストスパートですよ♪
That's all for today...good luck !! 20061205writed