因縁生起

~From 開運コラム~


小正月を迎え、お正月気分も多少落ち着いてきましたね。とは言え、旧正月を送るまでは、何かと縁起にちなんだ儀式や習慣が続きます。お正月のお飾りは外しても、新年を祝う縁起物を、あちこちで目にします。可愛いものから笑ってしまうものまで多種多様ですが、縁起物の色使いを見ているだけでも、日本の文化や祖先の想いを感じます。

縁起とは、因縁生起の略で、元は仏語(仏教術語)です。全ての事象は、因と縁という直接・間接原因によって、生まれ起こる由縁を説くもので、本来、縁起とは、それらの因果をまとめた"書画"を指します(現在のように物は指しません)。神仏の由来や功徳から、個人レベルの吉凶まで、色々なことが記されています。

昔の日本は、仏教を含む学問に触れられるのは高位の者だけでしたが、因縁生起の内容を広めて歩くことを業とする者が現れます。所謂、縁起担ぎと呼ばれる者です。現在では、縁起を気にすることを、縁起を担ぐと言いますが、元々は、縁起が記された有りがたい書画を肩に担いで、その内容を伝えて歩く者を指しました。

これを聞いた無学な庶民は、因縁生起に登場する人や物に注目し、それを作り、販売するようになります。これらが縁起物の発祥・流通の背景にあり、江戸時代にマックスを迎えます。江戸の町は豊かで楽しく、粋なことが目白押しで、文化や習俗が沢山生まれました。盛んな縁起物の流通も、時代を代表する習俗の一つだと言えるように思います。

勿論、途中で無くなった縁起もありますが、今も尚、引き継がれて定着している縁起も数多くあります。因縁生起には書かれていないのに、地方から発生・発展した縁起もあります。何も良いことがないのに、時代を超えて引き継がれるということはないでしょうから、残っている縁起物に関しては、程度の大小はあれ、何らかの意味があるのだと思います。

日本の縁起物は、言の葉の力・呪に敏感な日本人らしく、古代から続く言霊への想いが強く込められています。おせちの意味は周知のものですが、弁才天を弁財天に改めたり、竹笊を被せた張子の犬で、「笑(竹の下に犬)」という文字を表したり…、本当にそれでいいの?と思うようなものもありますが、それでいいみたいです。また鏡餅を、神の体や蛇のトグロを表したり、火事や厄災を鎮めるために水を連想する物(魚等)を飾るなど、少し高度な信仰由来のものもあります。信仰が由来になっている縁起は、地方や家業の種によって異なりますので、どれが正しいとは言い切れませんが、信じる因縁によって生起されます。

縁起物は、呪物とは違いますので、その物自体に霊力や開運力はありません。ですが、人の心を希望や期待で満たしたり、季節の移り変わりを意識させて、心を新鮮にする…という大きな役割を果たしています。ちなみに呪(まじない)とは、人力を超える霊力・霊験をあらわし、直接的には祈祷や秘符を筆頭に、広くは神社仏閣で売られている御守り等も含まれます。霊力を宿す呪物の取扱いは注意を要しますが、縁起物は気軽に扱い、玩具として楽しむことも可能です。因縁生起を知らないまま、インテリアとして飾るのも悪くありませんが、お手元にある縁起物の由来や意味を知っておくのも宜しいかと思います。

縁起の由来や意味を多少知っておけば、常識や作法に役立ちます。話が少しそれますが、神社参拝の作法において、女性は拍手の音を立てないように広めた師がいました。しかしそれは "忍び手"と言って、喪の作法です。各神社から苦情が殺到したニュースも、記憶に新しいところです。また、御神体である木や岩に触れることを広めた師は、間も無く立場を追われました。これらはいずれも、御神霊が最も嫌う"穢れ"を振り撒く行為です。喪に関する行事は、神職が出向く形を取り、神社内に持ち込むことは禁止されています。御神体も、触るものではなく、拝み奉るものです。注連縄が張られている神域内に立ち入ったり、御神体に触れますと、霊障(神罰)に拠る人生転落や精神病を招き易くなります。

単なる非常識で済めば良いですが、神仏に関することは、笑われるだけでは終わらず、それを勧めた者も実行した者も、神罰仏罰が当たることがあります。人間界においても、「知らなかったから」 という言い訳で罪を免れることは出来ず、ちゃんと罰せられるのと同じように、引き起こした者も、それに乗った(加担した)者も、それなりの因果を受けます。管理された神社ならば、敷地内に作法が記されています。それに沿いましょう。尚、特有の伝説を持ち、触れる事をも由とする独自の習慣を持つ神社もあります。この場合は、神社が掲示している作法に従いましょう。

付け加えるならば、御神木の木肌に小銭を刺し込む人がいますが、あれも止めておいた方が無難です。賽銭箱があるならそちらに入れるべきですし、無いなら根元の土の上に置くほうがマシです。五行説においても、金と木は相剋(痛め合う)にありますが、木肌に金属を刺すのは、藁人形を五寸釘で木に打ち込む因縁に繋がります。それを抜きに行くまで、または抜かれて数百日が経つまで、その人は霊的に囚われる可能性があります。祟られる場合もありますので、神社が推奨している作法外のことは、お勧めできません。他の人がやっているから…と、安易な気持ちで真似をしている人もいますが、最低限の正確な知識を有しておけば、自ら悪因縁を起こすこともなくなります。特に、変わった作法を教わった場合は、新興宗教の息が掛かっている可能性もあることをご認識の上、ご判断下さいね。

話を元に戻します。先ほど、縁起物と呪物は違う旨を記しましたが、縁起物の由来や因縁を熟知し、それを利用した上で扱う場合は、その人の強い思念が縁起物を呪物に変えることもあります。因縁に拘り過ぎて、縁起物を呪物にした場合、処分できなくなったり、粗末な取扱いによって祟られることもありますので、縁起物は縁起物として楽しむことをお勧め致します。人が拠り所にする縁起物を作っているのも人間であることを考えましても、全ての因果は人間次第ですので、物を崇めたり固執する必要はないように思います。

縁起はそもそも、物ではなく、因果の経由を説いた"悟"です。呪物に関しましても、物体ではなく、そこに宿り、発せられる霊力に意味があります。御神御仏、守護霊、聖霊・精霊、呪術、縁起…、そして、愛、志、希望、誇り、喜び、悲しみ、苦しみ、怒り…など、人魂と人生を支える全ての真髄は、無形であるからこそ、人は生きていける…、そう思っています。

全ては表裏一体ですから、目に見えるものを大切にし、目に見えないもの(作用)にも気を配ることで、万全を期すことが出来ます。他人の悪因悪果にならないように努めるのを第一にし、その上で、悪因縁を招かぬ危機管理をし、良い因縁を招くために、"考えて"生活するように心掛けましょう。隅々まで、思考と感覚のアンテナを張っていれば、ひょんなことから幸運の種を手にすることができます。その幸運が幸運を呼び、また、その幸運が幸運を生み、幸せと感謝に満ちた強運人生が始まります。

今年は色々なことが増長しやすいので、不平不満や愚痴悪口はいつも以上に控え、良い言葉と良い行動を心掛けましょうね。魂胆のないサービス精神が、世知辛い世の中で生きる人達の心をノックし、思わぬ徳分と幸運が齎されるように思います。一人勝ちを狙う目立ちたがり屋さんよりも、縁の下の力持ちのような、皆で仲良く過ごすために尽くす調和的な人に、ラッキーな年です。目に見えない地味な努力をコツコツと重ねてきた人には、幸運のスポットライトが当たるでしょう。また多くの人が、地味な努力の積み重ねによる偉大な力を知り、その実行に取り組む機会(徳)が与えられると思います。良い因縁生起が成され、実り多い、豊かな年になります様に…♪

That's all for today...good luck !!   20080117writed 

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